風景旅行記

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『田舎教師』の旅 春

「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが 咲き、豪家の垣根からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出を着た田舎の姐さんがおりおり通った。」(田山花袋田舎教師』冒頭より)

 

 私がこの明治末期に書かれた小説を手に取ったのは、2年半ぶりに開催された神田の古本祭りであった。久しぶりに懐かしい友人と会い、路上に並ぶワゴンの横を間を、縫うように歩いていた。しかし私は金がない。そして本にも詳しくない。結果として、私が手に取るのはメジャーな文庫本や陳腐な歴史書ばかりであった。そんな中、私は岩波ビルの前で、岩波文庫の『田舎教師』を手に取ったのだった。読んだことのあるという友人も薦めてくれ、なにより灰色の退屈そうな表紙絵と、その下にある「限りない哀愁」という言葉が気にいって、その古本は私のものとなった。100円であった。

 9日後、私と薄汚れた文庫本は、北関東へと走る特急の中にあった。

羽生市HPより

 『田舎教師』の主人公・清三は、埼玉県北部、行田の城下町に住む文学青年である。同好の友人に恵まれ、恋愛をして、そしていつかは文学で名を成す夢があった。しかし彼の強く、そしておぼろげで儚い夢は、卒業とともにやってくる現実に押しつぶされていく。友人たちが東京に出ていく中、彼が歩むのは行田から四里、小村・弥勒の小学校の教壇へと続く道であった... 

  

 そしてこの3月も終わりの日、午前10時、私は行田の駅に降り立った。近代的な駅前は広々としているが特に店もなく静かだ。清三の住んでいた行田の市街地までは、駅から1時間弱の道のりである。バスにでも乗ればよいものだが、春の陽気にほだされて、つい大通りを歩いていく気になってしまった。

 コンビニで飲み物とチキンを買い、道を歩く。カモの泳ぐ川、広い畑地、遠くに見える工場や病院... 正直何か特色がある訳でもなく、人とすれ違うこともほとんどない。『田舎教師』とも所縁がある訳ではない。しかし、旅情は、四里の道への思いは、北関東の風景の中に膨れ上がっていった。

 住宅街に差し掛かってくると、水城公園への看板が出てくるので、長かった駅からの道と分かれ、公園へと向かう。水城公園、なんて良い響きだろう!

 そして実際の水城公園もその響きを裏切らなかった。東西の園池は優美なカーブを描いて、池端には人々が釣り針を垂らしている。桜はちょうど一番きれいな時期で、小さな石橋によく映えた。大正時代の信用組合の建物は淡い緑色のかわいらしい洋館で、春の暖かくのどかな空と似合っていた。



 信用組合の裏手、公園の北東の方に『田舎教師』の文学碑がある。



「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ。運命に従うものを勇者といふ。」

 

 『田舎教師』を読んだことのある方ならご存じのように、この物語の主人公・清三は実在の夭逝し、この地に生きた青年の日記をもとに描かれている。この文学碑に刻まれた一節もまた、彼の日記の一部分である。「運命に従ふものを勇者といふ」の言葉の悲しさ、無力さ、青っぽさ。

 日記はさらに「弱かりしかな、不真面目なりしかな、幼稚なりしかな、空想児なりしかな。今日よりぞわれ、勇者たらん。今日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん」と続く。悲しい言葉が、美しい春景色の隅に思い起こされる。わたしもまた、いつまで空想児でいられようか、いつまで不真面目でいられようか。いつかこの感性も、こんな旅も、この文章も、幼稚に思えてくる日が来るかもしれない。しかし、今日は、幼いままに、旅をしよう。

 水城公園を出て、忍城の門の跡などを通りながら、復興された天守閣を眺めに行く。この名城も、『田舎教師』を読むまでのイメージとはもう異なっていた。

城址はちょっと見てはそれと思えぬ位昔の形を失っていた。(中略)夕日は昔大手門のあったというあたりから、年々田に埋立てられて、里川のように細くなった沼に画のように明かに照り渡った。沼に架った板橋を渡ると、細い田圃道がうねうねと野に通じて、車を曳いて来る百姓の顔は夕日に赤く彩られて見えた。」(68頁)

 廃城を通り、さみしい行田の町、さびれた士族屋敷の道を、清三と親友・郁治は、美穂子の家へと歩いていく。その美穂子こそ、郁治と清三の恋する女性であった... 淡い青春の風景が、文学の風景が、頭の中をよぎっていく。

 忍城の博物館などはまた今度の来訪に回し、行田の市街地を東へと歩いていく。何も情報も調べもしないで来たものだから、行田の町の蔵造りや、古い城下町の香りのする建物の並びに驚き感動した。清三の頃より時代は下ると思われるが、それでも彼の見た風景、歩いた道を思い起こすには忍城天守より、この美しい街並みの方がよかった。大谷石の蔵が、北関東の文化の風を感じさせた。もっとも、小説の風景よりも幾分か豊かで、明るい雰囲気ではあったが。清三の家のあとと思われる辺りも歩いたが特に石碑などを見つけることはできず、また下調べもしないで来たため、しっかりと確認することはできなかった。

 ともかく、気を取り直して、「四里の道」はここからである。行田の街並みをあとに、私の足は羽生へ、弥勒へと向かっていく。

 川を渡り、古びた煙突のある工場の横を過ぎて、しばらくすると近代的なコンクリートに固められた用水路が見える。川端には桜が植えられて、水路はまっすぐなものだから遠くまで延々と咲き乱れているのが一望できた。道を変え、今度はこの用水路の桜並木の下を歩いていく。用水路の流れは速い。




 

 しばらくして水路ともお別れし、足を畑の広がる集落へと進めていく。寺にはやはり桜が咲き、大小の古墳があった。古墳の上に鎮座する小さな社、春の光に照らされた道端の陋屋、土手の枯草が冬の香りを残している河、青い畑に咲きこぼれる桜... この道は清三が歩いたであろう道より幾分か南になる別の道であろう。しかし、その風景は、清三の見た風景に思えた。何もかもが美しかった。

 

 

 道は四差路に差し掛かり、標識には「荒木」の文字がある。ここから先は人家も減り、道はただ広漠な関東平野の畑地の中をまっすぐ突き進むものとなっていった。北に南に遠く見える町の風景と、そこへ続く農道を見て、色々なことに思いを馳せた。

 

 行田市から羽生市へと入ると、道の先に集落が、大きな寺の屋根が見えてくるようになった。『田舎教師』にも出てくる新郷の街並みである。このあたりで、清三の歩んだ道と私の今日歩んだ道は合流する。畑地の中突然現れる人家、大きな造り酒屋、古い校舎を思わせる木造の建物…

 秩父鉄道新郷駅に向かうと、駅前には人一人いない。小さな無人の木造駅舎、木造の待合室、駅前広場は大谷石造りの土蔵などが囲んでいる。

 

 新郷から羽生は秩父鉄道で一駅、歩いて30分ほどの道のりである。秩父鉄道無人駅である新郷とは違い、羽生は近代的で大きな駅であり、また大きくまっすぐな公道が走っているので遠くからよく見える。しかし人気はやはり少なく、駅構内には高校生がいるばかりである。

 駅の反対側に出ると雰囲気は打って変わって、くたびれた建物が、狭い道に続いている。これならば西口と違い、小さな食堂もあるだろうか... 時間はもう午後の一時半にさしかかっている。シャッター街を徘徊すると、「純手打ちラーメン 伊勢屋」の看板がある。迷わずに入っていく。

 店内はテーブルと言い、座敷と言い、内装といい、居心地が良い食堂の雰囲気があった。テレビではちょうどNHKがついていて、甲子園の国学院久我山の試合を放送していた。うまいラーメンをすすりながら視線を腕に落とすと、服に引っ付き虫が何個もついていた。

 ここ羽生は、弥勒に赴任した清三が住み、やがて父母と共に暮らすことになった場所であり、その旧跡も残っているのだが、これについては訪問の時系列から、また後に書くことにしたい。

 腹を満たした後は、弥勒への道を進んでいく。ここでも私の下調べ不足が原因で、清三の歩んだ旧道ではない道を歩んでいってしまっていた。

 しかし、それでも旅路は楽しいものである。川の流れに、また桜並木が現れて、人びとが桜を眺めて春の暖かい日を楽しんでいる。町を抜けても、あるところにはコンテナの積まれた工場が、またあるところには人家が、あるところでは河川改修の工事員がいて、どこにも人の営みがある。

 思い切って、畑の間の農道を歩いていく。寂しそうな用水が流れ、殺風景な土気色の中に水仙が咲いている。和洋の人家が、カーキ色の小学校校舎が、畑の中に点在している。

 道は弥勒に近づくにしたがって細く、また白線によって確保される歩行路も細くなる。車が来るたびに、排水溝に落ちないよう気を付けて身をよじる。歩行者は私の他いない。

 そそて、その不便は弥勒の手前で最高潮に達する。なんと、弥勒への道は、東へと向かう道は、南北に通じる東北自動車道によって完全にさえぎられてしまっているのだ!もっとも、弥勒へと続く橋が一つかかっている。しかしこの橋は白線こそ引いてあるとはいえ、大柄な人であればどうしてもサイドミラーと右腕とが接触してしまうような細い間隔しかとっていない。都会の整備された歩道しか歩いてこなかった私には、少し怖い。しかし周囲を歩いてもこの道しかやはり、東北自動車道を越える道はないのである。

 高速道路が私たちの生活を支える大動脈であることは勿論私も理解している。しかし、本来は歩いて一歩の村境が、歩いて越すことができない。橋やトンネルも1キロ弱間隔でしかない。これでは文化も、土地間隔も、全く隔絶されてしまうじゃないか!もっとも、車社会の人々にとってみればこんなもの一衣帯水の距離なのであろう。しかし、ここまで歩くということに固執してきた私にとっては非常に大きな問題なのであった。

 かといってここまで来てああだこうだも言ってられないので、意を決して橋を渡る。私のすぐ横を車が走っていく。急ぎ足で長い橋を渡り切ると、そこは弥勒の町であった。

三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠の向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平屋造がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。」(12~13頁)

 橋を降りてすぐ、道の二股に分かれる真ん中に頼りなさげな松の木が数本植わっていて、その下に小さくひ弱な、和服姿の青年の像が立っている。清三の像、「田舎教師の像」である。四里の道は長かった。行田駅を出て5時間、清三の家のあった行田市街を出て4時間の道のりであった。空はいつの間にか曇りがちになっていて、歩いている姿で固まったままの銅像の背中は何か冷たく寂しく、儚く見えた。

 

 銅像のすぐ近くに清三が代用教員として働いた弥勒高等小学校の跡を示す看板が立てられている。『田舎教師』の出版された明治42年に廃校となったとのことであり、裏手には殺風景な駐車場と、小さな文学碑とがある。

 

 弥勒の町の西端の方に、小さな寺がある。奇妙な形をした山門をくぐると、御影石でできた史跡碑のような見た目の墓がある。「田山花袋作、『田舎教師』お種さんの墓」との文字が刻まれている。

弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲食に行ったりするということを兼ねて聞いていた。当分はその料理屋で賄もしてくれるし、夜具も課してくれると聞いた。そこにはお種という綺麗な評判の娘もいるという」(14頁)

「娘は莞爾と笑って見せた。評判な美しさという程でもないが、眉の処に人に好かれるように艶な処があって、豊かな肉づきが頬にも腕にも露に見えた。」(18頁)

 

 

 清三は「Artの君」一筋であるし、お種は田舎教師のストーリーに何か変わってくるわけではない。弥勒ののどかで退屈な風景の一コマを飾るだけの存在である。しかし、それは小説の中だけに過ぎない。弥勒の村ののどかな風景の中で、彼女は欠かすことのできない人物だったはずだ。現実の弥勒の村の風景と、清三の世界をつなぐ存在として、お種さんほど適格な人はいない。

 

 ここ円照寺の境内にはお種さんの墓だけでなく、「お種さんの資料館」なる小さな展示室がある。電気もついておらず入るのには少し勇気がいるが、特に管理者が駐在している訳でもなく、訪問者は断りなしに電気をつけ、展示室に入っていく仕組みになっている。

 小さな展示室内には「小川屋」で使われていた道具を中心に、お種さんの人生や『田舎教師』に関する展示がある。お種さんや清三というよりは、当時の弥勒の風景を感じることができるものであった。川端康成らが田舎教師の舞台となった利根川の河畔を散策している写真も展示されていたが、この時川端は『田舎教師』を読んでいなかったとのことである。

 館内の来訪者ノートを開くと、確認できる最後の来訪者は1カ月ほど前、また訪問者のほとんどは羽生市内の人々であった。大学のロシア文学の講義で、「昔は流行っていたのに、今では人気のない作家」を生徒から問われ田山花袋の名前があげられていた。花袋の名作も、現代人が読めば時代遅れで、童貞臭くて、退屈で... 新潮文庫版の解説では福田恆存がこの作品を主人公の影が薄い、退屈だ、風景描写しか見るところがないとこきおろしている。しかし、そんな弱く、純情で、繊細な清三の感性こそ、いつまでも等身大で、共感できる人を持ち続けると私は思う。いつか、この来訪者ノートに名を書いてある人と出会って話をして、利根川土手を歩いたらどんなに楽しいだろう。しかし、私の旅は常に一人である。

 

 資料館で頭に入れた地図をもとに、村役場や小川屋があったと思われる場所を歩いた。先に引用した弥勒についての記述と異なり、現在の弥勒は人家は固まってあるものの、物を売る店などはなくただ郵便局はあるのみだ。道をそれると、整備された小川が、竹藪の横を通り、畑地へ流れていっている。私は少し人家から離れた小道にうずくまって、道端の花と小川とを見ていた。

 

 しかし、残念なことに私はいつまでも時間を気にせずにここ弥勒に滞在することはできなかった。というのも、1日数本しか来ないバスが、そろそろやってくるのである。しかしスマホの電池は切れ、時計もしてこなかった私はバスの到着時間にちょうどバス停の前にという芸当はできない。美しい弥勒の風景とおさらばし、私は清三の像の横にあるバス停のベンチに座った。そして田舎教師のページを開く。

 

この間も郁治と論じた。『えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入れ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……』こう言って清三は友の巧名心をした。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。
 それを今思い出した。『自分も世の中の多くの人のように、暢気なことを言って暮らして行くようになるのか』と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。」(107頁)

教室にはいってみた。ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。12+15=27と書いてある。チョークもその時置いたままになっている。ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢を着た女も思い出された。」(266頁)

 

 この文章の青臭さを誰が笑ことができようか。センチメンタルを誰がそしることができようか。私のセンチメンタルな感情はまた、弥勒の寂しい風景と、寂しい松の木によって高ぶって、文章の一つ一つがあの畑地を歩いたときの香りをただよわせているようで、意味もなく鼻水がでた。

 バスは乗合バスだった。おばあさんと、壮年の男性が乗っていた。バスは羽生へ向かう橋をすぐにわたり切ると、誰も待っていないバス停を次々と越しながら羽生の駅へと向かった。

 羽生の駅前でバスを降りてから清三の下宿先・墓所にも向かったが、ここについてはまた次の旅行記に譲ろう。とにかく、私のひ弱な体は知らず知らずのうちに疲れ切っていて、心もまたナイーブになり切っていた。電車に乗ると、やはり『田舎教師』を開いたが、どうも文字が頭に入ってこず、いつのまにか眠りについてしまっていた。大学一年生はこうして終わっていった。

 

※引用箇所の参照頁は、岩波文庫版『田舎教師』改版第一刷(2018年)によっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松本旅行記 一日目

出発まで

 「今年の夏は毎週旅行してやる!」講義終わりに回転寿司を食べながら友人に息巻いてから、はや一カ月半が経っていた。就職先の決まったバイトの先輩は、大学二年の夏が人生で一番楽しい時間だと言った。そんな夏休みが、もうあと二週間で終わろうとしていた。そして、その二週間もバイトや諸々の事情を考えると、旅行に行けるのは今週か来週の月曜から水曜だけであった。

 行きたい場所は数えきれないほどあった。広島行きは長年の夢であったし、九月頭に行った京都は人が少なくて素晴らしく再訪を誓っていた。山形の広大な平野を電車で縦断することや、瀬戸内を船で自由に往来することも夢見た。しかし、そうこうしてなかなか行き先の決まらないうちに旅の計画は縮小せざるを得なくなり、電車で行ける諏訪に決定したのが出発の前日だった。母親の登録している何かしらのサービスでの宿代割引の利用(京都旅行はこのおかげで二泊二千円だった)を頼みに、私は両親のいる寝室へ向かった。

 計画性もプライドもない自分に、眠そうな両親は少し怒っていたが、結局父親がホテルを探してくれることになった。しかし前日では諏訪に良い場所は見つからず。急遽松本で探し、なんとか宿の確保をしてくれた。出発前日、10時頃であったと思う。あまりにも自分らしく情けない一泊二日の旅行の始まりだった。

出発

 出発前のドタバタとは打って変わって、当日は9:00新宿発の特急あずさに余裕をもって乗車することができた。もちろん切符は地元の駅で直前に買ったのだが、車内は丁度良くすいていて気持ちが良い。夜行バスと違って車窓もゆっくり快適に楽しめる...と思っていたが、そこは前日のドタバタによる睡眠不足の為にすぐに寝てしまった。

 起きた時には甲府平野の中に特急は走っていた。反対側の席では明るめの若い女性二人組が、「前方後円墳が見たーい!」「あんなのの何が面白いの?上から見なきゃ意味分かんないでしょ!」「でも~」といったような会話をしていて楽しかった。そんな人々も甲府、茅野と少しづつ降りてゆき、特急はトンネルを抜け松本盆地へと入っていく。この盆地という地形が、関東平野民の私には土地に何とも言えない独特の色合いと旅情を通わせているように思えて、鉄道趣味がなくともいつでまでも乗っていたい気分にさせられた。途中まで寝てたとはいえ、松本までの二時間強はあっという間に過ぎた。

到着

 11:30頃に松本駅に降り立つと、駅前広場は人も少なく、それでいて空は非常に青く晴れ渡っていて地方都市の香りがどこまでも漂っていた。(個人的に、地方都市のイメージと青空は切っても切れない関係にあるのだ)

 ホテルへ向かう道もやはり同じで、人通りは少なく建物もどこかノスタルジックなものの清潔。単純な私は少し面倒くささもあったこの旅がとんでもなく楽しいもののように思えてきてならなかった。その興奮のまま、いかにも地方都市感ただよう(これは失礼な表現だろうか)定食屋を発見し、これまたうきうきしながら入店。この「お食事処高橋」は店内も想像通り(誉め言葉)のクラシック?で清潔な食堂といった雰囲気。迷わずかつ丼ランチ(750円)を注文した。店内は他に客が数名。店の方には申し訳ないが、私がもっとも心地よい環境だった。

ソースかつ丼(ピンぼけはご容赦)

  そんな中登場したかつ丼は、これまた想像通りの...と思いきや、濃いソースで黒く染まったソースかつ丼!そんなものがあることもその日初めて知った私は、これまた素晴らしいこの地方の特色を知れたような気がして食べる前から楽しかった。ちなみにソースかつ丼会津や群馬、長野、福井といった地方の名物だそうだ。

 お味の方はというと、ソースの酸っぱさ?がカツとよくあってご飯も進み、正直私の味覚では普通のかつ丼の1.3倍増しほどのおいしさが感じられた。これは蕎麦でも濃ければ濃いほど良いという私の味覚での話であるから参考にはならないかもしれないが、新宿あたりでこの雰囲気のまま出店すれば大評判だろうと思った。こうした旅で味を楽しむということは、高校までの私には理解できなかったが、一人旅で自分で入る店を決めるようになって初めて旅の楽しみの一つになった。これだけでも、薄い財布から旅行の為に大枚はたく意義があったというものだろう。

 

かっこいいビルヂング、街並み

 食後にはそのままホテルへと向かう。到着したばかりだから、町の地図は把握できていないものの、それがむしろ意外性や楽しさを増して、川沿いに出ても、通りに出ても何もかもが美しく見えた。ホテルの近くには洗練された低層のビルヂングが並び、道の奥には青々とした山々が近く見えた、時間の進みや風景ののどかさは、自分がいくら東京に染まってなどいないと言おうとしても、それをあざ笑われているように思わさせた。

 そうこうしてホテルに着き、フロントを覗くと電気がついておらず少し怖い。なにしろ一人旅はまだ二回目なのだ。思い切って入ると、カウンターの奥に素朴な女性のフロントの方がいて、声をかけて荷物を預かってもらうよう頼む。フロントさんは快諾してくれたが、慣れないのか少々慌て気味で、書類を探すのに数分、それで出てきたのは同姓異名の方のものなど少しドタバタする。しかし、狭いフロントには二人っきりで咎める人もいなければ、ガラス扉から薄暗い屋内にあたたかい日差しが入ってきてやはり外と同じゆっくりとした時間が流れていた。慌てぶりはバイトを始めたての私を見ているようだったし、その必死さや訛りも全て旅情をかきたてるものとなった。まだ部屋も観ておらず、建物も古臭いにもかかわらずこのホテルでよかったと強く感じた。

いざ観光

 荷物を置けば、そのまますぐに観光である。行先はとくにひねりもなく松本城。というのも、松本城の五層の天守はホテルからも近いうえ目立つので地図入らずだと考えたためである。案の定すぐに天守は視界に入ってきた。

 しかしいざ松本城に近づくと、看板が目に入る。「国宝 旧開智学校」 これには私も強く心を動かされた。そもそも松本城は小学生の頃祖父母と共に一度バスで来たのだが、開智学校は見たことが無い。そして、城好き少年の私は、今では近代建築好きの限界大学生へと成長を遂げているのだ。擬洋風建築の最高峰である開智学校がすぐそこにあるならば行かねばならない。

 急遽堀端を北に進み少し歩くと、すぐに近代的ながら旧開智学校の校舎をイメージしたと思われる面白いデザインの開智小学校が見えてくる。そのグラウンドを傍目に学校の北へ行けば、そこに旧・開智学校校舎があった。

開智小学校(旧・開智学校前から撮影)

旧・開智学校校舎

 目の前に現れた開智学校校舎は、想像よりも何回りか大きく、存在感があった。写真ではデザインからこじゃれた洋館のように見えて小さく感じるが、実際は校舎である。そしてその中でもまず目を引くのが中央の尖塔。そして、その下にある唐破風、「開智学校」の字、雲の彫刻と目が移っていく。特に「開智学校」の額の脇の天使のリリーフは非常にユーモラスでかわいげがあった。

 と、ここまで開智学校について書いてきたが、実は旧・開智学校校舎は耐震工事の為に2024年秋ごろまでは閉館しているとのことであった。もちろん私のように外から見るだけでも楽しめるのだが、せっかく旅行で来たなら中に入りたいもの事実。仕方なく校舎を一周するなどした。

 しかし、その代わり、というのは失礼だが、旧開智学校校舎に隣接してもう一つ洋館がある。松本市旧司祭館だ。

旧司祭館(後背から撮影)

 こちらは非常に小さく、かわいらしいつくり。中は展示室となっており、自由に出入りすることができた。内部は旧・開智学校とこの司祭館についての展示がある。それもよくあるパネルだけのものでなく、大型模型や当時の教室の再現などもしっかりとあって楽しめる。

 しかし、それ以上に魅力的なのは大きな窓ガラスと淡くきれいな空色の下見板によって開放的な印象を受けるベランダだ。展示パネルによるとこれは東南アジアの植民地で生まれたコロニアル建築の要素であるという。小ぶりなものではあるものの、開智学校と晴れた空がよく見渡せて明るい窓枠ともよくあって、とても綺麗だった。

 司祭館をあとにすると、裏の小川を渡り、さらに北へと歩いていくことにする。少し行くと、のどかな住宅街(この言葉も東京で使う時とはなにか違う意味になる気がする)の中に、小さな緑の塚が見えてきた。蟻ケ崎饅頭塚。古墳時代に築かれた円墳だという。

 

  別になんてことはない、土饅頭である。しかし何も知らないままに歩いていき、突然邂逅したとなれば、やはりなにか旅情と新たな発見の喜びが感じられる。塚に上ると古びた簡素な祠が、雑草の中に鎮座している。屋根はさびていて、太陽に焼かれていた。塚を裏に抜けると小道が走っていて、筑摩の山並が綺麗に見えた。何でも夏だなあと言って済ませるのは良くないとは思いつつ、それでもやはり夏の風景だった。

 この饅頭塚からもう少し北に歩くと、私の見たかった松本深志高校の校舎が見える。戦前に建てられたスクラッチタイル張りの校舎は重厚で美しかった。校庭からは体育の時間だろうか、掛け声もするが敷地の広さもあり、静けさの方が際立っていて、それが何か退屈で気だるげな美しさを感じさせた。夏という季節と、人のいない校舎が、なにか学生生活が、日常が、永遠に続いていくような錯覚を抱かせるように思われるのは私だけだろうか?それが好きで、高校の頃は知らない町で高校を見かけるとその脇を歩いて行ったりもしたのだった。今ではそんな不審者的行動は自重しているが、それでも今回ばかりは、名建築を見ながら、自分がこの町で生まれていたら、どう育って、何を考えていたのだろう、そんなことを考えていた。

 不審者認定をされないよう妄想も程々に、南へ反転し往路とは別の道を南下していく。大通りも良いが、やはり一人旅なのだから小道を歩きたい。綺麗な新しい住宅ももちろんあるが、年季の入った住宅や、旧家のものと思われる格調高い邸宅、文化住宅と思われる個人宅もあった。先ほど小川と述べた川も違う端から渡ればしっかりとした川だったが、川端に柵はなく開放的だった。開智小学校は昼休みに入っており、閑散としていた広い校庭には生徒が走り回っていた。誰もがこの街の人で、ただ1人私だけが異郷の人であった。

 しかし、そんな空間も松本城まで出ればすぐに変わる。カメラやスマホを持った人々が、(コロナ以前と比べればはるかに少ないと思われるが)巨大な天守を眺めている。私も城は好きだし、松本城は本当に美しい城ではないかと思う。黒い下見板張りの外観や小天守の連なる姿は、広い水堀や背後の山並みも併せて、姫路城と比べても二段、三弾は美しいと思う。堀端には開放的な広い道とベンチがあり、歩いていて心地よかった。堀には白鳥が漂っていた。

 そんなに美しい城ではあるし、私ももちろん観覧料を払い中にも入ったのだが、ここまで駄文を連ねすぎていることもあり、これ以上松本城について語るのは控えようと思う。というのも、実は祖父母と共にバス旅行で松本城だけは一度訪れているのだ。だから初訪問の感慨というのは薄い。

 それに加えて、この夏訪れた場所の中で最もと言えるほど混雑していたこと(といっても写真のようにたかが知れているが...)、私が最も愛する、とても優美な月見櫓が工事中で(それ自体は良い事ではあるが)風情がなかったことから、そこまで良い印象を受けることはできなかったのだ。

 

 こうしたこともあって、15:00頃になると見込んでいた松本城見学は14:00には終わってしまっていた。これではチェックインもできないので、今度は城下町を伝ってさらに南下することにした。

 小さい頃、私が城郭が好きだったことは先に書いたとおりだが、いつしか、その興味の対象は城からその周辺の町へと移っていった。もっとも、城下町の魅力は、決して城郭と同じ時代の武家屋敷や和風建築に求められるものではなく、旧市街ということにあると私は思っているから、城郭への興味と種類は違うかもしれない。

 ここ松本の城下町もそれは同じで、武家屋敷や下見板の塀の続く光景などはほとんど残っていない。しかし、ところどころに美しい近代建築が、人影は少ないが清潔で美しい路地が、あるいは堀端に、あるいは川端にいくつもみられるのだ。こうしたものは、城の天守と違って写真だけでは表現のしようがない。歩いてきた道、流れる水、歩く人、そうしたものが全て絡み合って一つの風景として成り立つのだから、こればかりは自分の足で歩かなければならない。その道も決して観光コースとして定まっている訳ではないから、気のゆくままに道を右に左に進んでいけば、その選択の一つ一つが自分だけの景観になる。これこそが、一人旅の最大の楽しみではないだろうか。そしてその楽しみを味わおうとするときに、どの道へ進んでも一つ一つが表情の違う、魅力ある風景の現れる城下町はやはり素晴らしいのだ。

あがたの森

 城下町を抜け、松本市美術館を横目にさらに南へ、東へ歩いてゆくと、緑の公園が見えてくる。第二の目的地・あがたの森公園だ。

 この公園は写真のとおり、普通の森林公園ではない。旧制松本高校の敷地、建物をそのまま保存している公園なのだ。広い敷地の中には広場や園池もあるのだが、その正門には右に旧制松本高校の本館、左には講堂が鎮座していて、その真ん中をまっすぐに通る道には高い杉の木が並んでいる。人影はやはりまばらだが、炎天下の中、ここだけは涼しいようで、何か違う時間が流れているように思われる。戦前の旧制高校教養主義といった歴史は、今でも一定数の人の憧れであり、ロマンでもあると聞くが、ここでその時代の風がかすかではあるが感じられたというのは、決して誇張ではない。これは旅行から帰ってきて初めて知ったことだが、芦部信喜北杜夫佐々木良作井出一太郎らはみなこの地で学んだとのことである。

 なお、建物は旧開智学校と同様保存工事中、古写真展を開催している開放部分も月曜日のため閉館中であった。

 その後、公園の裏手にあり、これも古い建物である松商学園高校の校舎を正門前から覗く。そして、その正門前の山崎ショップに入店。外も中も高校の売店といった感じで、さまざまなポスターが張られ、おばちゃんは店の一角の厨房?からでてきた。放課後にやってくる高校生たちの為に弁当を作っていたのだろうか。狭い店内ながら弁当コーナーは充実していた。客は私しかいなかったが、生きている、この土地の青春が感じられた。熱いのでペットボトル飲料を購入して再び外へ出た。

 このまま歩いて松本駅へ戻っても20分ほどなので当初はその道を考えていたが、公園の杉並木の外はあまりにも暑く、なにより夏の旅行で何より貴重なのは体力であることは先の京都旅行で実感済みであるから、公園の脇から出るバス(タウンスニーカー)に乗って松本駅へと戻ることにした。待ち時間数分、200円也。

休憩と夕方の散歩

 松本駅からはホテルに直行。フロントの少し慌て癖のあるお姉さんは、やはりまだ薄暗く狭いカウンターの奥にいて、やはり少し慌て気味にチェックインの作業をしてくれた。「お金は既に払っていただいているので結構です」といったことを言われ、あれ、親が予約した時に払ってくれたのかしらと思っていたら1、2分してやはり払っていないことが分かり、2,000円程だったかを支払った。そういった仕草の節々に必死さが出ていて、おそらく私の方が年下であり失礼ではあるが、頑張って!と心の中でずっと念じていた。チェックインを頼んでから5分近くたち、簡単な説明を受け終わると、ひどく狭く殺風景な部屋の、少し広めのベッドに倒れこんで体力回復に努めることにした。

 アラームこそ設定していたものの、旅の疲れは意外と溜まっていて、5分ごとに起きて、寝てを繰り返していると、いつのまにか夕焼けの時間も近づいていた。大急ぎで起きて、軽くシャワーを浴び、汗に汚れたインナーを脱ぎ、冷蔵庫で冷やしたペットボトルと財布、スマホなど最低限のものだけをもって、日の暮れ出す少し前の町へと繰り出していく。人通りの少ない道、くたびれた建物、整然とした街並み… 体には涼しい風が染みわたって軽やかな気持ちで歩いていく。日が暮れた温泉街に繰り出していく気持ちと似たようなこの爽やかな温度感を味わうため、そのためのホテルでの一時が功を奏した。

 ここからの道のりについては、私の文章力では今までの記述と重なってしまうだろうし、また経路の中の固有名詞をいちいちだしていくことも少し違うと思うので、稚拙ではあるが数枚の写真を貼っていくことでその代わりとしたい。

 前言をすぐに翻すようで申し訳ないが、この写真の中でホテルから城下町を伝って女鳥羽川を渡る道は本当に美しく、爽やかなものであったということは書き添えておきたい。

 道なりに歩いていくと、突然墓に当たった。貞享騒動の際に、一揆側の農民の除名の為に奔走した藩士・鈴木伊織の墓であるという。墓の傍らには水が湧き出ていた。触れてみると驚くほどに冷たかったが、それが清らかに思えて、手にすこし注いで口に含んだ。やはり、爽やかですがすがしい気分だった。

 再び女鳥羽川に戻る。東側をのぞむと、美しい山々が穏やかな表情をしていた。京都旅行の時にも思ったが、町を川が貫いていること、そしてその先に山々が見えること、その美しさは東京人であるからこそ強く感じられるものだと思う。

 歩いていく間にも、やはり美しい近代建築や、枯れてなお艶っぽい一角もあった。しかし足は脇へそれていくこともなく、知らず知らずに城へと向かって言っていた。

 もう日は暮れかかっていた。公園に人もまばらで、城の美しさが映えた。いくつも並べられたベンチにはほとんど座る人もおらず、私はそのうちの一席に腰かけて、飽くまで天守と水堀と山の向こうの色の移り変わりを見ていた。何もかもが儚いような、永遠のような感情だった。あまりにも贅沢だった。

 ここで文章家や旅に生きる人ならば、本当に明日になるまででもベンチに座って城を見つめ続けている所だが、私は平々凡々な人間なものだから、ふと吾に返ると夕飯を食べる店探しにまた駅の方へ向かった。地方都市なりに小さな歓楽街もあれば、店は全て閉まってあまりにも暗くうらぶれた場所もあった。流れ流れて、私はブラックラーメンを出す店に入った。客は私一人だった。

 胡椒が効いていて、スープもうまく、おいしい一杯だった。ここまで流れ着いた甲斐があった。

 こうしてお腹を満たすと、再び来た道と同じ方向を、別の道を伝って向かう。もう外は真っ暗だ。途中、女鳥羽川の河原に降りる。思ったよりも草の青いにおいがする。足元はあまり見えないが、歩くたびに小さなカエルや虫が飛び跳ねているのは分かった。川の流れる音が近かった。風情に浸りたくもあったが、都会育ちの私には少し怖い気持ちもあって、早々にアスファルトの上へと戻ってしまった。

 そうして、再び夜の松本城へと戻ってきたのだ。

 ライトアップされた松本城は、たった1時間強のあいだの表情を全く変えていた。堀には白鳥が悠々と泳いでいて、カメラを構えている人もいたが、やはり人は少なかった。私はまた同じベンチに座って、天守を見ながら、無理やりに将来や今までの人生など高尚なことについて考えようとしたが、どうもうまくいかなくて、ぼうっとしているだけだった。美しいものを前にすれば、それも旅先であれば、ぼうっとしているだけでも価値のある時間になり、若さの体現のようになるのは嬉しい。しかしそんなこともいつまで言っていられるのだろう、私の青春も、自由な時間も、もう僅かなのだ... そう考えると何か悲しくなって、城とお別れして、ああ、松本での一日はこれで終わるのだ、どうせ一人旅、帰れど待つ人もいないものを、もう少しあのベンチに座っていればよかっただろうかなどと考えながら暗く寂しい、東京とは違う夜の町、ホテルの道を歩んだ。

 夜になってもやはり薄暗くて怪しいホテルのフロントにはあの不慣れなお姉さんはいなくて、仕事に慣れた若いお兄さんがいた。でっかいカギを返してもらい部屋に入ると、もう鬱っぽい感情はなくなって、各所で貰い集めたパンフレットをベッドの上に広げ、撮った写真を眺めては幸せに浸った。長い一日はこうして終わっていった。