風景旅行記

https://note.com/andriese

松本旅行記 一日目

出発まで

 「今年の夏は毎週旅行してやる!」講義終わりに回転寿司を食べながら友人に息巻いてから、はや一カ月半が経っていた。就職先の決まったバイトの先輩は、大学二年の夏が人生で一番楽しい時間だと言った。そんな夏休みが、もうあと二週間で終わろうとしていた。そして、その二週間もバイトや諸々の事情を考えると、旅行に行けるのは今週か来週の月曜から水曜だけであった。

 行きたい場所は数えきれないほどあった。広島行きは長年の夢であったし、九月頭に行った京都は人が少なくて素晴らしく再訪を誓っていた。山形の広大な平野を電車で縦断することや、瀬戸内を船で自由に往来することも夢見た。しかし、そうこうしてなかなか行き先の決まらないうちに旅の計画は縮小せざるを得なくなり、電車で行ける諏訪に決定したのが出発の前日だった。母親の登録している何かしらのサービスでの宿代割引の利用(京都旅行はこのおかげで二泊二千円だった)を頼みに、私は両親のいる寝室へ向かった。

 計画性もプライドもない自分に、眠そうな両親は少し怒っていたが、結局父親がホテルを探してくれることになった。しかし前日では諏訪に良い場所は見つからず。急遽松本で探し、なんとか宿の確保をしてくれた。出発前日、10時頃であったと思う。あまりにも自分らしく情けない一泊二日の旅行の始まりだった。

出発

 出発前のドタバタとは打って変わって、当日は9:00新宿発の特急あずさに余裕をもって乗車することができた。もちろん切符は地元の駅で直前に買ったのだが、車内は丁度良くすいていて気持ちが良い。夜行バスと違って車窓もゆっくり快適に楽しめる...と思っていたが、そこは前日のドタバタによる睡眠不足の為にすぐに寝てしまった。

 起きた時には甲府平野の中に特急は走っていた。反対側の席では明るめの若い女性二人組が、「前方後円墳が見たーい!」「あんなのの何が面白いの?上から見なきゃ意味分かんないでしょ!」「でも~」といったような会話をしていて楽しかった。そんな人々も甲府、茅野と少しづつ降りてゆき、特急はトンネルを抜け松本盆地へと入っていく。この盆地という地形が、関東平野民の私には土地に何とも言えない独特の色合いと旅情を通わせているように思えて、鉄道趣味がなくともいつでまでも乗っていたい気分にさせられた。途中まで寝てたとはいえ、松本までの二時間強はあっという間に過ぎた。

到着

 11:30頃に松本駅に降り立つと、駅前広場は人も少なく、それでいて空は非常に青く晴れ渡っていて地方都市の香りがどこまでも漂っていた。(個人的に、地方都市のイメージと青空は切っても切れない関係にあるのだ)

 ホテルへ向かう道もやはり同じで、人通りは少なく建物もどこかノスタルジックなものの清潔。単純な私は少し面倒くささもあったこの旅がとんでもなく楽しいもののように思えてきてならなかった。その興奮のまま、いかにも地方都市感ただよう(これは失礼な表現だろうか)定食屋を発見し、これまたうきうきしながら入店。この「お食事処高橋」は店内も想像通り(誉め言葉)のクラシック?で清潔な食堂といった雰囲気。迷わずかつ丼ランチ(750円)を注文した。店内は他に客が数名。店の方には申し訳ないが、私がもっとも心地よい環境だった。

ソースかつ丼(ピンぼけはご容赦)

  そんな中登場したかつ丼は、これまた想像通りの...と思いきや、濃いソースで黒く染まったソースかつ丼!そんなものがあることもその日初めて知った私は、これまた素晴らしいこの地方の特色を知れたような気がして食べる前から楽しかった。ちなみにソースかつ丼会津や群馬、長野、福井といった地方の名物だそうだ。

 お味の方はというと、ソースの酸っぱさ?がカツとよくあってご飯も進み、正直私の味覚では普通のかつ丼の1.3倍増しほどのおいしさが感じられた。これは蕎麦でも濃ければ濃いほど良いという私の味覚での話であるから参考にはならないかもしれないが、新宿あたりでこの雰囲気のまま出店すれば大評判だろうと思った。こうした旅で味を楽しむということは、高校までの私には理解できなかったが、一人旅で自分で入る店を決めるようになって初めて旅の楽しみの一つになった。これだけでも、薄い財布から旅行の為に大枚はたく意義があったというものだろう。

 

かっこいいビルヂング、街並み

 食後にはそのままホテルへと向かう。到着したばかりだから、町の地図は把握できていないものの、それがむしろ意外性や楽しさを増して、川沿いに出ても、通りに出ても何もかもが美しく見えた。ホテルの近くには洗練された低層のビルヂングが並び、道の奥には青々とした山々が近く見えた、時間の進みや風景ののどかさは、自分がいくら東京に染まってなどいないと言おうとしても、それをあざ笑われているように思わさせた。

 そうこうしてホテルに着き、フロントを覗くと電気がついておらず少し怖い。なにしろ一人旅はまだ二回目なのだ。思い切って入ると、カウンターの奥に素朴な女性のフロントの方がいて、声をかけて荷物を預かってもらうよう頼む。フロントさんは快諾してくれたが、慣れないのか少々慌て気味で、書類を探すのに数分、それで出てきたのは同姓異名の方のものなど少しドタバタする。しかし、狭いフロントには二人っきりで咎める人もいなければ、ガラス扉から薄暗い屋内にあたたかい日差しが入ってきてやはり外と同じゆっくりとした時間が流れていた。慌てぶりはバイトを始めたての私を見ているようだったし、その必死さや訛りも全て旅情をかきたてるものとなった。まだ部屋も観ておらず、建物も古臭いにもかかわらずこのホテルでよかったと強く感じた。

いざ観光

 荷物を置けば、そのまますぐに観光である。行先はとくにひねりもなく松本城。というのも、松本城の五層の天守はホテルからも近いうえ目立つので地図入らずだと考えたためである。案の定すぐに天守は視界に入ってきた。

 しかしいざ松本城に近づくと、看板が目に入る。「国宝 旧開智学校」 これには私も強く心を動かされた。そもそも松本城は小学生の頃祖父母と共に一度バスで来たのだが、開智学校は見たことが無い。そして、城好き少年の私は、今では近代建築好きの限界大学生へと成長を遂げているのだ。擬洋風建築の最高峰である開智学校がすぐそこにあるならば行かねばならない。

 急遽堀端を北に進み少し歩くと、すぐに近代的ながら旧開智学校の校舎をイメージしたと思われる面白いデザインの開智小学校が見えてくる。そのグラウンドを傍目に学校の北へ行けば、そこに旧・開智学校校舎があった。

開智小学校(旧・開智学校前から撮影)

旧・開智学校校舎

 目の前に現れた開智学校校舎は、想像よりも何回りか大きく、存在感があった。写真ではデザインからこじゃれた洋館のように見えて小さく感じるが、実際は校舎である。そしてその中でもまず目を引くのが中央の尖塔。そして、その下にある唐破風、「開智学校」の字、雲の彫刻と目が移っていく。特に「開智学校」の額の脇の天使のリリーフは非常にユーモラスでかわいげがあった。

 と、ここまで開智学校について書いてきたが、実は旧・開智学校校舎は耐震工事の為に2024年秋ごろまでは閉館しているとのことであった。もちろん私のように外から見るだけでも楽しめるのだが、せっかく旅行で来たなら中に入りたいもの事実。仕方なく校舎を一周するなどした。

 しかし、その代わり、というのは失礼だが、旧開智学校校舎に隣接してもう一つ洋館がある。松本市旧司祭館だ。

旧司祭館(後背から撮影)

 こちらは非常に小さく、かわいらしいつくり。中は展示室となっており、自由に出入りすることができた。内部は旧・開智学校とこの司祭館についての展示がある。それもよくあるパネルだけのものでなく、大型模型や当時の教室の再現などもしっかりとあって楽しめる。

 しかし、それ以上に魅力的なのは大きな窓ガラスと淡くきれいな空色の下見板によって開放的な印象を受けるベランダだ。展示パネルによるとこれは東南アジアの植民地で生まれたコロニアル建築の要素であるという。小ぶりなものではあるものの、開智学校と晴れた空がよく見渡せて明るい窓枠ともよくあって、とても綺麗だった。

 司祭館をあとにすると、裏の小川を渡り、さらに北へと歩いていくことにする。少し行くと、のどかな住宅街(この言葉も東京で使う時とはなにか違う意味になる気がする)の中に、小さな緑の塚が見えてきた。蟻ケ崎饅頭塚。古墳時代に築かれた円墳だという。

 

  別になんてことはない、土饅頭である。しかし何も知らないままに歩いていき、突然邂逅したとなれば、やはりなにか旅情と新たな発見の喜びが感じられる。塚に上ると古びた簡素な祠が、雑草の中に鎮座している。屋根はさびていて、太陽に焼かれていた。塚を裏に抜けると小道が走っていて、筑摩の山並が綺麗に見えた。何でも夏だなあと言って済ませるのは良くないとは思いつつ、それでもやはり夏の風景だった。

 この饅頭塚からもう少し北に歩くと、私の見たかった松本深志高校の校舎が見える。戦前に建てられたスクラッチタイル張りの校舎は重厚で美しかった。校庭からは体育の時間だろうか、掛け声もするが敷地の広さもあり、静けさの方が際立っていて、それが何か退屈で気だるげな美しさを感じさせた。夏という季節と、人のいない校舎が、なにか学生生活が、日常が、永遠に続いていくような錯覚を抱かせるように思われるのは私だけだろうか?それが好きで、高校の頃は知らない町で高校を見かけるとその脇を歩いて行ったりもしたのだった。今ではそんな不審者的行動は自重しているが、それでも今回ばかりは、名建築を見ながら、自分がこの町で生まれていたら、どう育って、何を考えていたのだろう、そんなことを考えていた。

 不審者認定をされないよう妄想も程々に、南へ反転し往路とは別の道を南下していく。大通りも良いが、やはり一人旅なのだから小道を歩きたい。綺麗な新しい住宅ももちろんあるが、年季の入った住宅や、旧家のものと思われる格調高い邸宅、文化住宅と思われる個人宅もあった。先ほど小川と述べた川も違う端から渡ればしっかりとした川だったが、川端に柵はなく開放的だった。開智小学校は昼休みに入っており、閑散としていた広い校庭には生徒が走り回っていた。誰もがこの街の人で、ただ1人私だけが異郷の人であった。

 しかし、そんな空間も松本城まで出ればすぐに変わる。カメラやスマホを持った人々が、(コロナ以前と比べればはるかに少ないと思われるが)巨大な天守を眺めている。私も城は好きだし、松本城は本当に美しい城ではないかと思う。黒い下見板張りの外観や小天守の連なる姿は、広い水堀や背後の山並みも併せて、姫路城と比べても二段、三弾は美しいと思う。堀端には開放的な広い道とベンチがあり、歩いていて心地よかった。堀には白鳥が漂っていた。

 そんなに美しい城ではあるし、私ももちろん観覧料を払い中にも入ったのだが、ここまで駄文を連ねすぎていることもあり、これ以上松本城について語るのは控えようと思う。というのも、実は祖父母と共にバス旅行で松本城だけは一度訪れているのだ。だから初訪問の感慨というのは薄い。

 それに加えて、この夏訪れた場所の中で最もと言えるほど混雑していたこと(といっても写真のようにたかが知れているが...)、私が最も愛する、とても優美な月見櫓が工事中で(それ自体は良い事ではあるが)風情がなかったことから、そこまで良い印象を受けることはできなかったのだ。

 

 こうしたこともあって、15:00頃になると見込んでいた松本城見学は14:00には終わってしまっていた。これではチェックインもできないので、今度は城下町を伝ってさらに南下することにした。

 小さい頃、私が城郭が好きだったことは先に書いたとおりだが、いつしか、その興味の対象は城からその周辺の町へと移っていった。もっとも、城下町の魅力は、決して城郭と同じ時代の武家屋敷や和風建築に求められるものではなく、旧市街ということにあると私は思っているから、城郭への興味と種類は違うかもしれない。

 ここ松本の城下町もそれは同じで、武家屋敷や下見板の塀の続く光景などはほとんど残っていない。しかし、ところどころに美しい近代建築が、人影は少ないが清潔で美しい路地が、あるいは堀端に、あるいは川端にいくつもみられるのだ。こうしたものは、城の天守と違って写真だけでは表現のしようがない。歩いてきた道、流れる水、歩く人、そうしたものが全て絡み合って一つの風景として成り立つのだから、こればかりは自分の足で歩かなければならない。その道も決して観光コースとして定まっている訳ではないから、気のゆくままに道を右に左に進んでいけば、その選択の一つ一つが自分だけの景観になる。これこそが、一人旅の最大の楽しみではないだろうか。そしてその楽しみを味わおうとするときに、どの道へ進んでも一つ一つが表情の違う、魅力ある風景の現れる城下町はやはり素晴らしいのだ。

あがたの森

 城下町を抜け、松本市美術館を横目にさらに南へ、東へ歩いてゆくと、緑の公園が見えてくる。第二の目的地・あがたの森公園だ。

 この公園は写真のとおり、普通の森林公園ではない。旧制松本高校の敷地、建物をそのまま保存している公園なのだ。広い敷地の中には広場や園池もあるのだが、その正門には右に旧制松本高校の本館、左には講堂が鎮座していて、その真ん中をまっすぐに通る道には高い杉の木が並んでいる。人影はやはりまばらだが、炎天下の中、ここだけは涼しいようで、何か違う時間が流れているように思われる。戦前の旧制高校教養主義といった歴史は、今でも一定数の人の憧れであり、ロマンでもあると聞くが、ここでその時代の風がかすかではあるが感じられたというのは、決して誇張ではない。これは旅行から帰ってきて初めて知ったことだが、芦部信喜北杜夫佐々木良作井出一太郎らはみなこの地で学んだとのことである。

 なお、建物は旧開智学校と同様保存工事中、古写真展を開催している開放部分も月曜日のため閉館中であった。

 その後、公園の裏手にあり、これも古い建物である松商学園高校の校舎を正門前から覗く。そして、その正門前の山崎ショップに入店。外も中も高校の売店といった感じで、さまざまなポスターが張られ、おばちゃんは店の一角の厨房?からでてきた。放課後にやってくる高校生たちの為に弁当を作っていたのだろうか。狭い店内ながら弁当コーナーは充実していた。客は私しかいなかったが、生きている、この土地の青春が感じられた。熱いのでペットボトル飲料を購入して再び外へ出た。

 このまま歩いて松本駅へ戻っても20分ほどなので当初はその道を考えていたが、公園の杉並木の外はあまりにも暑く、なにより夏の旅行で何より貴重なのは体力であることは先の京都旅行で実感済みであるから、公園の脇から出るバス(タウンスニーカー)に乗って松本駅へと戻ることにした。待ち時間数分、200円也。

休憩と夕方の散歩

 松本駅からはホテルに直行。フロントの少し慌て癖のあるお姉さんは、やはりまだ薄暗く狭いカウンターの奥にいて、やはり少し慌て気味にチェックインの作業をしてくれた。「お金は既に払っていただいているので結構です」といったことを言われ、あれ、親が予約した時に払ってくれたのかしらと思っていたら1、2分してやはり払っていないことが分かり、2,000円程だったかを支払った。そういった仕草の節々に必死さが出ていて、おそらく私の方が年下であり失礼ではあるが、頑張って!と心の中でずっと念じていた。チェックインを頼んでから5分近くたち、簡単な説明を受け終わると、ひどく狭く殺風景な部屋の、少し広めのベッドに倒れこんで体力回復に努めることにした。

 アラームこそ設定していたものの、旅の疲れは意外と溜まっていて、5分ごとに起きて、寝てを繰り返していると、いつのまにか夕焼けの時間も近づいていた。大急ぎで起きて、軽くシャワーを浴び、汗に汚れたインナーを脱ぎ、冷蔵庫で冷やしたペットボトルと財布、スマホなど最低限のものだけをもって、日の暮れ出す少し前の町へと繰り出していく。人通りの少ない道、くたびれた建物、整然とした街並み… 体には涼しい風が染みわたって軽やかな気持ちで歩いていく。日が暮れた温泉街に繰り出していく気持ちと似たようなこの爽やかな温度感を味わうため、そのためのホテルでの一時が功を奏した。

 ここからの道のりについては、私の文章力では今までの記述と重なってしまうだろうし、また経路の中の固有名詞をいちいちだしていくことも少し違うと思うので、稚拙ではあるが数枚の写真を貼っていくことでその代わりとしたい。

 前言をすぐに翻すようで申し訳ないが、この写真の中でホテルから城下町を伝って女鳥羽川を渡る道は本当に美しく、爽やかなものであったということは書き添えておきたい。

 道なりに歩いていくと、突然墓に当たった。貞享騒動の際に、一揆側の農民の除名の為に奔走した藩士・鈴木伊織の墓であるという。墓の傍らには水が湧き出ていた。触れてみると驚くほどに冷たかったが、それが清らかに思えて、手にすこし注いで口に含んだ。やはり、爽やかですがすがしい気分だった。

 再び女鳥羽川に戻る。東側をのぞむと、美しい山々が穏やかな表情をしていた。京都旅行の時にも思ったが、町を川が貫いていること、そしてその先に山々が見えること、その美しさは東京人であるからこそ強く感じられるものだと思う。

 歩いていく間にも、やはり美しい近代建築や、枯れてなお艶っぽい一角もあった。しかし足は脇へそれていくこともなく、知らず知らずに城へと向かって言っていた。

 もう日は暮れかかっていた。公園に人もまばらで、城の美しさが映えた。いくつも並べられたベンチにはほとんど座る人もおらず、私はそのうちの一席に腰かけて、飽くまで天守と水堀と山の向こうの色の移り変わりを見ていた。何もかもが儚いような、永遠のような感情だった。あまりにも贅沢だった。

 ここで文章家や旅に生きる人ならば、本当に明日になるまででもベンチに座って城を見つめ続けている所だが、私は平々凡々な人間なものだから、ふと吾に返ると夕飯を食べる店探しにまた駅の方へ向かった。地方都市なりに小さな歓楽街もあれば、店は全て閉まってあまりにも暗くうらぶれた場所もあった。流れ流れて、私はブラックラーメンを出す店に入った。客は私一人だった。

 胡椒が効いていて、スープもうまく、おいしい一杯だった。ここまで流れ着いた甲斐があった。

 こうしてお腹を満たすと、再び来た道と同じ方向を、別の道を伝って向かう。もう外は真っ暗だ。途中、女鳥羽川の河原に降りる。思ったよりも草の青いにおいがする。足元はあまり見えないが、歩くたびに小さなカエルや虫が飛び跳ねているのは分かった。川の流れる音が近かった。風情に浸りたくもあったが、都会育ちの私には少し怖い気持ちもあって、早々にアスファルトの上へと戻ってしまった。

 そうして、再び夜の松本城へと戻ってきたのだ。

 ライトアップされた松本城は、たった1時間強のあいだの表情を全く変えていた。堀には白鳥が悠々と泳いでいて、カメラを構えている人もいたが、やはり人は少なかった。私はまた同じベンチに座って、天守を見ながら、無理やりに将来や今までの人生など高尚なことについて考えようとしたが、どうもうまくいかなくて、ぼうっとしているだけだった。美しいものを前にすれば、それも旅先であれば、ぼうっとしているだけでも価値のある時間になり、若さの体現のようになるのは嬉しい。しかしそんなこともいつまで言っていられるのだろう、私の青春も、自由な時間も、もう僅かなのだ... そう考えると何か悲しくなって、城とお別れして、ああ、松本での一日はこれで終わるのだ、どうせ一人旅、帰れど待つ人もいないものを、もう少しあのベンチに座っていればよかっただろうかなどと考えながら暗く寂しい、東京とは違う夜の町、ホテルの道を歩んだ。

 夜になってもやはり薄暗くて怪しいホテルのフロントにはあの不慣れなお姉さんはいなくて、仕事に慣れた若いお兄さんがいた。でっかいカギを返してもらい部屋に入ると、もう鬱っぽい感情はなくなって、各所で貰い集めたパンフレットをベッドの上に広げ、撮った写真を眺めては幸せに浸った。長い一日はこうして終わっていった。